こんにちは。編集長のモッピーです。
戦国時代、ゆる散歩の続きだよー!
図書館のお姉さんに教えてもらいましたー!
天正18年(1590年)に
小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉
天下統一総仕上げ@宇都宮・会津!
秀吉は宇都宮城に9日間滞在し、
関東・東北地方の大名たちと会い、配置を決めました。
大名たちにとっては宇都宮に来て
秀吉に忠誠を誓うことが
存続できるかどうかの分かれ道だったんだね。
この重要なイベントを宇都宮で行うために、
秀吉は「日光御成道」を通った可能性が高いんだって。
江戸城を出発した後、荒川を渡って埼玉県に入り、
川口市を抜けて緑区大字大門でさいたま市に入りました。
さいたま市の東側を縦断し、
岩槻城、古河城、結城城を経て宇都宮城へ。
日光御成道
日光御成道は、歴代の将軍が日光社参の際に通った道で
岩淵宿、川口宿、鳩ケ谷宿、大門宿、岩槻宿を通り、
幸手宿の手前で日光道中に合流するんだよ。
1590年当時、江戸から北へ向かう道の中で
主要な道だったんだって。
秀吉は宇都宮に滞在中、帰り道の岩付と小田原の間に
御座所(秀吉が泊まったり休息したりする)を
用意するように命じました。
そして御座所の建物は河越城の建物を解体して
その材料で造るように命じたんだよ。
岩付城では北条方と豊臣方で激しい戦いがあったけど
河越城は戦わずに降伏したため無傷だったんだね。
こうして武蔵府中(東京都府中市)に
御座所が設置されました。
岩槻城と府中の距離は40キロ。
当時の軍勢の移動も1日40キロくらいだから
ちょうどいい位置に造ったんだよ。
さて、秀吉。宇都宮から会津に行った帰りは
岩槻城に泊まった後、さいたま市の真ん中あたりを
ななめに横断し、府中を経由して小田原に向かい、
京に帰りました。
岩槻城に泊まった際、秀吉は咲き誇る萩をみて
和歌を詠みました。
そして秀吉をもてなした家康の家臣で
岩槻城主の高力清長に与えたんだって。
なごりをば つきる枝にや 残すらん
花の盛りを 捨つる都路
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— 北浦和JOURNEY (@JpKitaurawa) May 22, 2021
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